★Catherine Malabou, Que faire de notre cerveau? (Bayard, 2004/04)
 カトリーヌ・マラブー『わたしたちの脳をどうするか——ニューロサイエンスとグローバル資本主義(桑田光平+増田文一朗訳、春秋社、2005/06/20、amazon.co.jp)


■目次

・日本語版序文 〈騒乱〉に満ちた脳とともに 港千尋
・謝辞


・序論 可塑性と柔軟性——脳を意識するために


・第一部 可塑性の活動範囲
 A 決定と自由のあいだ
 B 「三つ」の可塑性
 C わたしたちは性能を高めるうえで選択の可能性をもつのか?


・第二部 中央権力の危機
 A 「大脳=機械」論の終焉
 B ニューロン人間と資本主義の精神
 C 社会からの「離脱」とうつ病――新たな排除の諸形態


・第三部 「あなたはあなたのシナプスだ」
 A 「シナプス自己」または「原自己」
 B 「ロスト・イン・トランスレーション」——ニューロンから心へ
 C もうひとつの可塑性


・結論 生物学的オルター・グローバリズムへ向けて


・原注
・日本語版インタヴュー(聞き手=桑田光平+増田文一朗)「わたしたちの可塑性をどうするか」
・訳者あとがき



★Samir Okasha, Philosophy of Science (A Very Short Introduction 67, Oxford University Press, 2002/07, amazon.co.jp)


■目次

・1 What is science?
・2 Scientific reasoning
・3 Explanation in science
・4 Realism and anti-realism
・5 Scientific change and scientific revolutions
・6 Philosophical problems in physics, biology, and psychology
・7 Science and its critics


・Further reading
・Index


⇒samir okasha
 http://www.bris.ac.uk/Depts/Philosophy/okasha/



★Claude Lévi-Strauss, SAUDADES DO BRASIL (Librairie Plon, 1994)
 クロード・レヴィ=ストロース『ブラジルへの郷愁』川田順造訳、みすず書房、1995/10/16、amazon.co.jp


■概要


1930年代、ブラジルをフィールドワークで訪れたレヴィ=ストロースが撮影した写真を集めたもの。


■目次

・プロローグ


・ブラジルとの出会い
・ガデュヴェオ族からボロロ族へ
・ナンビクワラ族の世界
・アマゾニアで
・帰途


・訳者あとがき


■引用

『ブラジルへの郷愁』は、1921年ダリウス・ミヨーが作った曲の名である。当時、在ブラジル・フランス大使館に勤務していたミヨーは、この国の大衆芸術に接してその愛好者となり、自分なりのやり方でその感銘を表してみようとしたのだ。

(同書、注記より)

一度目の調査旅行では、私はライカのほかに、卵形の小さな8ミリ・ムービーカメラを一台もっていたが、その商品名は忘れた。私はそれをほとんど使わなかったが、それというのも、直接見て、私のまわりで起こっていることを理解する代わりに、ファインダーに目をつけたままでいるのは、してはならないことのように私には思えたからだ。それゆえ、私が我慢して撮ったのは、切れ切れの数場面にすぎず、そのいくつかのものは馬上で撮ったために映像が揺れている。

(邦訳書、22-23ページ)


増田文一朗(ますだ・ぶんいちろう, 1977- )


■略歴

1977年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科フランス文学専攻・博士課程。2003/2004年度フランス政府給費留学生として、パリ第8大学フランス文学科博士課程留学中。

カトリーヌ・マラブー『わたしたちの脳をどうするか』、訳者紹介より)


松本健一竹内好論』 (第三文明社、1975/12; 岩波現代文庫学術147、岩波書店、2005/06/16、amazon.co.jp)


岩波現代文庫版では、「沈黙のはてに」「「竹内好という問題」浮上」が増補されている。


■目次

・序章——生きるかたち
・学問する情熱の章
・故郷喪失の章
・共同体論に関する章
・日本浪漫派との訣別の章
・いまだ生まれ出でざる言葉の章
・『魯迅』の世界
・体験とその意味についての章
・近代の批判に関する章
ナショナリズムとアジアの章
・啓蒙者の位相の章
・終章——沈黙のかたち


・沈黙のはてに——竹内好追悼
・「竹内好という問題」浮上——地殻変動する現代史を背景に


・あとがき
・現代文庫版のためのあとがき


■引用

竹内好にとって、民衆も中国もアジアも、いずれも方法である。方法とは何か。自己の思想を現実のなかで検証する仮説、ということである。武器といいかえてもよい。かれはこれらの武器を作っては毀し、毀しては作る。こういう一見徒労にみえるかのごとき営為(虚業)に従いつづけられるのあh、かれが武器を作ることじたいを最終目的としていないからである。

(同書、岩波現代文庫版、15ページ)

かくして竹内好は、いまだに学者である。大学教授をやめ、評論家をやめたものを学者とよぶ伝統は、わがくににはないかもしれない。とくに近代以後、その伝統はより強化された。アカデミズムはいわゆる官学と同義語である。体制によって認められることなしに学者であることができないとは、わがくにの知識人の不幸であるかもしれない。


ただわたしにはそれを、知識人の不幸といって済ませられない感情がある。その感情を露骨にいってしまえば、アカデミズムが官学と同義語となったのは、知識人の主体性の欠如にもとづくはずだ、ということである。体制に依存することなしに学者でありえない事態を、知識人の不幸などというのは一種の甘えである。翻って、そういう甘えが、官学をアカデミズムとみなすような伝統を生みだしたのである。

(前掲同書、24ページ)

すべての学問がアカデミズムとして権威化する弊はさけえぬものの、そこに外気の流入があるならば、「一応の硬化は防げる」であろう。外気の流入とは、たとえばジャーナリズムの利用である。言い換えれば、こんにちの漢学に必要なものは、「爽涼なディレッタントの精神である。

(前掲同書、39ページ)


桑田光平(くわだ・こうへい, 1974- )


■略歴

1974年生まれ。東京大学大学院人文社会研究科フランス語フランス文学先専攻・博士課程。2004/2005年度フランス政府給費留学生として、パリ第4大学文学部博士課程留学中。

カトリーヌ・マラブー『わたしたちの脳をどうするか』、訳者紹介より)