松本健一竹内好論』 (第三文明社、1975/12; 岩波現代文庫学術147、岩波書店、2005/06/16、amazon.co.jp)


岩波現代文庫版では、「沈黙のはてに」「「竹内好という問題」浮上」が増補されている。


■目次

・序章——生きるかたち
・学問する情熱の章
・故郷喪失の章
・共同体論に関する章
・日本浪漫派との訣別の章
・いまだ生まれ出でざる言葉の章
・『魯迅』の世界
・体験とその意味についての章
・近代の批判に関する章
ナショナリズムとアジアの章
・啓蒙者の位相の章
・終章——沈黙のかたち


・沈黙のはてに——竹内好追悼
・「竹内好という問題」浮上——地殻変動する現代史を背景に


・あとがき
・現代文庫版のためのあとがき


■引用

竹内好にとって、民衆も中国もアジアも、いずれも方法である。方法とは何か。自己の思想を現実のなかで検証する仮説、ということである。武器といいかえてもよい。かれはこれらの武器を作っては毀し、毀しては作る。こういう一見徒労にみえるかのごとき営為(虚業)に従いつづけられるのあh、かれが武器を作ることじたいを最終目的としていないからである。

(同書、岩波現代文庫版、15ページ)

かくして竹内好は、いまだに学者である。大学教授をやめ、評論家をやめたものを学者とよぶ伝統は、わがくににはないかもしれない。とくに近代以後、その伝統はより強化された。アカデミズムはいわゆる官学と同義語である。体制によって認められることなしに学者であることができないとは、わがくにの知識人の不幸であるかもしれない。


ただわたしにはそれを、知識人の不幸といって済ませられない感情がある。その感情を露骨にいってしまえば、アカデミズムが官学と同義語となったのは、知識人の主体性の欠如にもとづくはずだ、ということである。体制に依存することなしに学者でありえない事態を、知識人の不幸などというのは一種の甘えである。翻って、そういう甘えが、官学をアカデミズムとみなすような伝統を生みだしたのである。

(前掲同書、24ページ)

すべての学問がアカデミズムとして権威化する弊はさけえぬものの、そこに外気の流入があるならば、「一応の硬化は防げる」であろう。外気の流入とは、たとえばジャーナリズムの利用である。言い換えれば、こんにちの漢学に必要なものは、「爽涼なディレッタントの精神である。

(前掲同書、39ページ)